マイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリックスそしてギル・エヴァンスというトライアングルの頂点を枠組みとして、彼らの出会いとすれ違いを描いている。2014年の刊。
著者の中山康樹氏は元スイング・ジャーナルの編集長で音楽評論家として活躍していた。マイルス・デイヴィスに関する幅広い批評で知られるが、ロックについてもユニークな批評を行っていた。2015年の1月に亡くなっておられ本書がおそらく遺作となる。
中山氏はまた『MILES:マイルス・デイビス自叙伝』1990年4月刊の翻訳者でもある。この自叙伝の中ではマイルス自身の言葉としてジミ・ヘンドリックスとのある意味必然的な出会いと唐突な別れが語られている。この自叙伝の中でのマイルスには色々なミュージシャンへの賛辞が見られるが、ジミ・ヘンドリックスに対しては「絶賛」と呼べる別格の賛辞を述べている。これについて翻訳者でもある中山氏は次のように書いている。
しかし自伝における記述は、ヘンドリックスとの一件にとどまらず、しばしば生き残った者が生き急いだものに向ける慈悲の情に包まれ、真実が置き去りにされる傾向が見られる。特にヘンドリックスに対する記述に、早世した友を思うマイルスの気持ちと無念が表れているように思う。即ち真実がどのようなものであったかが問題なのではなく、マイルスの記憶の中では、ヘンドリックスとの交流は、自伝に記されたものが「真実」に間違いなかった。p.257
これを起点としつつ、想像力を巡らせてマイルス・デイヴィス、ジミ・ヘンドリックス、そしてギル・エヴァンスというトライアングルにおける、運命的な出会いとすれ違いを描いて見せたのが本書だ。
本書のメインテーマをあえて単純に言ってしまえば、何故、マイルス・デイヴィスとジミ・ヘンドリックスの共演は実現しなかったのか。ということになる。
言ってしまえば、共演が実現しなかった理由は明白でヘンドリックスの急逝以外にない。しかし中山氏の解釈によれば、ヘンドリックスはマイルスとの共演を切望していたのに対して、マイルスの側ではヘンドリックスとの共演は必ずしも必要ではなく、少なくとも急ぐ必要まではなかった。ということになる。結局マイルスさえ「その気」になれば共演は実現していたはずだが、他のギタリストを雇ったり、バンドオブジプシーのヘンドリックスではなくバディ・マイルスを誘う、などという行動を見ると「その気」はあまりなかった、というのが中山の考え方だ。中山はマイルスとヘンドリックスの関係を師弟関係としてとらえており、師にとっての弟子との共演と弟子にとっての師との共演は必然意味が異なり、それらは少なくとも対称ではない。と考えているようだ。この辺りが本書の10章「友情と裏切り」以降に書かれているのだが、この中山の解釈と推測をどう受け取るかで本書の評価が変わってくる。
例えばロックの側から、ジミ・ヘンドリックスの側から本書を読んだ者は、中山氏によるジミ・ヘンドリックスの過小評価に機嫌を悪くするかもしれない。あるいはジャズの側から、マイルスの側から本書を読んだ者は、やっぱりマイルスに比べるならヘンドリックスなど別にさほどのものではない、という読み方をするかもしれない。それらはもちろん誤読だ。
誤読とはいえ、中山氏の文章を何度も読み返すと、その誤読を誘発するような奇妙なロジックが気になるところとなる。実は、中山氏は本書を出す以前から、雑誌Aeraのエッセイで、次のように断言してしまっている。
マイルスとヘンドリックスの共演については、「マイルスのほうが共演を望んでいた」と考えると、誤った方向にいってしまう。これまで多くの人たちが、両者の共演について語ってきたが、すべてこの出発点で失敗している。
その根拠についても史実から説明しており、それを本格的にまとめたものが本書という位置づけになる。中山氏がピックアップした史実が仮に全てそのまま事実だとしても「マイルスは共演を望んでいない」ことの説明になるとは思えない。百歩譲っても「マイルスは共演を望んでいたが、それを自身の作品の中で行うことに対してはとても慎重だった。また共演を急ぐ必要性もまったくなかった」という程度の推測しか成り立たないように思われる。逆にヘンドリックスの作品やあるいはギル・エバンスの作品中で客演することを拒む理由は全くない。だからこそ、ギル・エバンスの作品に客演する形で、ジミ・ヘンドリックスとマイルス・デイビスは共演する予定になっていた、にもかかわらず、ヘンドリックスの突然の死によってそれは永遠に実現できなくなった、いう明白な史実があり中山氏自身がそれを本書に記している。にもかかわらず「マイルスは共演を望んでいない」ことにこだわろうとする中山氏の意図が筆者には理解できない。
中山氏は先にも述べたようにマイルスとヘンドリックスを上下関係の構図で捉えており、この構図が強固であるために、マイルスからヘンドリックスへの強い「共感」という部分を見逃していたのではないか、というのが筆者の個人的な感想だ。ここで共感というのはミュージシャンとしての共感ではなくプレイヤーとしてのそれであって、もっと言えばブルースプレイヤーとしての共感、最も進んだブルース・プレイヤーとしての自負と共感だ。
例えば、マイルスがヘンドリックスから譲り受けたワウペダルをたちまち使いこなすことができた、というエピソードは、ブルースプレイヤーとしての「共感」から説明できるものである、と思うのだ。トランペットと(エレクトリック)ギターは全く構造の違う楽器だが、少なくともブルースを演奏しようとすると(それがジャズであれロックであれ)そのボイシングとサウンドは驚くほど似てしまうのだ。
と、批判的な書き方になってしまったが、以上の違和感を除けば、本書は、とても読み応えのある優れた音楽ドキュメンタリーとなっている。「マイルスは共演を望んでいない」ことへの固執さえなければ文句なしに一級の音楽ドキュメンタリになっているとも思う。とは言え固執のロジックは強固でも緻密でもない。それは一冊の著作の主たるテーマであるにもかかわらずノイズとして読み飛ばすことが可能だ。結局本書前半における丹念な史実の積み重ねが、後半における著者のやや強引な思い込みを否定することを許してくれるように読めるのだ。
ジミ・ヘンドリックスの伝記として読んでもマイルス・デイヴィスの伝記として読んでも面白い。筆者の個人的な違和感の妥当性については是非本書を直接読んで判断していただきたい。