耳障りと耳触り

古典文学を読むためには、語彙・文法、合わせて時代の歴史的な知識が必須なのはご存じの通り。受験で苦労した方も少なくないでしょう。あの苦労に比べれば、古典の音楽(ここではブルーズやロック)を聴く方はそれほど難しくない(はず)、というお話です。

近年「耳ざわり(触り)」という妙な言い回しがすっかり定着してしまいました。現代の人は、「耳触り」のいい音楽を浴びるほど聞くことができるので、古典ブルーズやロックの「耳障り」なサウンドに耐えられないということでしょう。

古典(ブルーズ、OLDロック)の代表格としてロバート・ジョンソンがさっぱり理解できん、とか、ジミ・ヘンドリックスの何がすごいのか理解できん、といったある意味理解できるが、別の意味で全く残念な意見を聞くたびに思うことがあります。

古典(ブルーズ、OLDロック)は、音質が悪くて耳が拒絶反応を起こすのはよくわかります。しかし、音楽の語彙と文法は(実は)現代のものと【実は】それほど変わりがありません。現在のロック系音楽は古典から派生している以上当然のことです。この【実は】を探り当てることが古典を聴く醍醐味だと追うのです。

結局、音楽の語彙や文法をある程度知識として知っていれば、古典はそれほどとっつきにくいものではなくなるはずです。では古典の文法や語彙を勉強するにはどうしたらいいか?

話が堂々巡りになりますが、古典から学べばいいんです。というかそれしかありません。

「耳障り」は我慢して、「耳触り」の良さはとりあえずお預けにして、ロックの歴史は古典ブルーズ・ロックから何を引き継いだのか。何を引き継がなかったのか。それを探るつもりで古典に耳をそばだててみれば、きっと発見がたくさんあると思います。

言い方を変えると、何が継承され続けて「普遍」となり、何が時代の一過性=「流行」なのか、それを理解するために古典を是非とも聞いて欲しい、と思います。

なんか説教臭くなりました。すいません。こういうのを書くと自分の年齢を感じます。

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