ジェームス・ブラウンとニクソン大統領

 1972年の大統領選挙を控えて、当時のニクソン大統領の側近が、ジェームス・ブラウンに密かにコンタクトをとりました。その目的は明らかで大統領選における黒人有権者からの票を増やそうということです。J・ブラウンはその機会を利用して、ホワイトハウスに自分の意見を受け入れさせる可能性を探っていました。彼はアメリカの少数民族の地位向上に関する様々な政治的施策をホワイトハウスに提案していたのです。

 J・ブラウンは、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師の誕生日を国民の祝日にする、という提案をニクソンに持ちかけました。ニクソンは「やぶさかではない」という程度の返答をしたらしいのです。ニクソンの腹づもりでは、白人保守層の反感をなるべく買わないようにしながらも、アフリカ系アメリカ人からの支持を増やしたかったのでした。キング牧師の誕生日を国民の祝日にするというプランは白人保守層から強い反発を受けることが明らかで、さすがに実現は困難なはずですが、それでもニクソンは明確なNOは示さなかったといいます。

  J・ブラウンはニクソンは何度もコンタクトをとって腹の探り合いをしたらしいのですが、その結果として、選挙直前の時期にニクソン支持を記者会見で明確に宣言しました。

 彼は会見の席で、ニクソンの少数民族に対する政策を支持することを表明しました。

  • 少数民族企業への支援
  • 少数民族大学など教育機関への支援
  • 少数民族の雇用に対する支援
  • 麻薬蔓延の防止策

 このJ・ブラウンによるニクソン支持は、黒人層の一部から強い批判を受けます。「ニクソンのピエロ」(=白人大統領に媚びる道化者)という言葉が出てくる始末です。直後のボルチモアのコンサート会場には抗議のピケが張られ、コンサート来場者は普段の半分以下にまで減ってしまったといいます。

 大統領選ではニクソンが勝利して再選されます。J・ブラウンは大統領就任式でのステージを依頼されますがこれを断ります。それでもJ・ブラウンに対する抗議や非難は止まりません。5月になってアポロ劇場に出演した際にもまだ「ニクソンの道化」「ピエロを町から追い出せ」というプラカードが掲げられていました。

 ショーが始まってからもブーイングが止まなかったのを見て、J・ブラウンはショーを中断して観客に語りかけました。

「家は外から変えることはできない。家の中に入らなければ変えられないんだ。だから俺はニクソンさんを支援した。俺は黒人みんなが政策の中に入れるよう努力している。政府が俺たちを忘れないように圧力をかけようとしているんだ。」

『俺がJBだ』ジェームス・ブラウン ジェームス・タッカー著、山形浩生他訳

 彼がここで言う「家」とはもちろんホワイトハウスの事です。J・ブラウンの言葉は観衆の一部に受け入れられましたが、頑なに受け入れない者もいました。

 J・ブラウンによるニクソン支持はその後も賛否が分かれます。

 肯定的な意見は、彼がアフリカ系アメリカ人とアメリカにおける少数民族の地位向上を真摯に望んでいたことを評価します。否定的な意見は、ニクソン支持を売名行為とその失敗、プレスリーになりたかったブラウンの思い上がり、と考えます。

 最後に私自身の個人的な考えを添えておきます。もしも、ニクソン支持だけを切り取って考えれば否定的な印象を持ったかもしれません。しかし、彼の生涯を通してみた時に、極貧から成りあがった彼のプライドと生き様を考えれば、あの時期に反感や非難を覚悟してまで「売名行為」をするというのはあり得ない、と思うのです。仮にあれが「売名行為」であるとすれば、あまりにもリスクが大きくて割が合わないでしょう。ですからJames Brown = Godfather of Soulのニクソン支持は彼を長年支持してきた大勢のファンに対する彼なりの責任感からの行動であると、そんな風に信じたいと思っています。2006年のクリスマスに亡くなってから既に26年経ちました。

 ニクソンはウォーターゲート事件で失脚して1974年で辞任します。結局キング牧師の祝日は実現されず、祝日が実現するには1983年まで待たなければなりませんでした。

 

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