ジェームス・ブラウンとキング牧師

 1968年4月4日(木曜日)、キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されました。全米はいつ暴動が起こってもおかしくない一触触発の緊張状態に陥りました。

 翌4月5日のボストンではジェームス・ブラウンの公演が予定されていました。ボストンの当局、特に市長は当初、暴動を誘発する恐れのあるJ・ブラウンの公演を中止させた方がよいと考えていました。しかし検討の結果、もしJ・ブラウンの公演を中止しようものならかえって暴動の危険が高まるという認識で一致しました。

 ボストン当局は暴動を抑えるべく様々な策を検討しますが、その中からジェームス・ブラウンの公演をテレビ中継するプランが持ち上がります。中継の中でJ・ブラウンの口から黒人群衆に「冷静になるよう」説得してもらおうというわけです。ボストン議会で唯一の黒人だったトム・アトキンス議員がJ・ブラウンにコンタクトをとり、ブラウンはこの件を基本的に受諾します。

 テレビ放映の契約や権利問題など雑多な問題が山積していましたが、J・ブラウンがほぼ全面的に協力することで、ボストン・ガーデンのショーはプラン通りに開催されます。ショーの冒頭ではブラウンから紹介される形で、トム・アトキンス議員とボストン市長ケヴィン・ホワイトが登場し、キング牧師とジェームズ・ブラウンを称えるスピーチを行います。

 J・ブラウンは曲間のMCで「キング牧師をリスペクトするなら彼が悲しむような暴力を慎むべきである」ことを訴えます。J・ブラウンがキング牧師を称え、彼の思い出を話す内に感余って涙をこぼすシーンもあります。ショーの直後には録画のTV中継が行われ、ブラウンのメッセージは電波に乗りました。最終的にJ・ブラウンの協力が功を奏してボストンの街は平静を保つことができたのです。

 他の場所、例えばワシントンでは暴動が勃発します。ワシントン市からの要請でJ・ブラウンは、ワシントン市庁舎内でテレビ出演し、ボストンの時と同じように群衆に対して冷静を呼びかけます。その後J・ブラウンはラジオにも出演してメッセージを出し続けます。次のようなものです。

みんなの気持ちはよくわかる。だが、物を壊したり、焼いたり、盗んだり、略奪したりしても何も達成できない。テロ行為はやめるんだ。団結するんだ。焼くんじゃない、子供たちに学ぶ機会を与えるんだ。家に帰れ。テレビを見るんだ。ラジオを聴くんだ。ジェームス・ブラウンのレコードを聴け。この国の人種問題に対する本当の解決法は教育だ。焼いたり殺すことじゃない。準備をするんだ。資格を持つんだ。何か所有するんだ。偉くなれ。それがブラックパワーだ。

『俺がJBだ』ジェームス・ブラウン ジェームス・タッカー著、山形浩生他訳

 J・ブラウンは全米の暴動を最小限に抑えることに成功します。最終的には、当時のジョンソン大統領夫人とその娘が直接J・ブラウンに電話して感謝の意を伝えたといいます。

 以上がジェームズ・ブラウンのファンなら誰もが知っている伝説です。彼が激動の1960年代にあって単なる人気シンガーではなくアメリカ社会を大きく動かした人物であったことを伝えています。彼はこの後、公民権運動以降のアメリカ社会における政治問題に関わらざるを得なくなりました。しかしその経緯は決して単純なものではありませんでした。それについては稿を改めることにします。

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