エディ・ヘイゼルとファンカデリック

エディ・ヘイゼル Eddie Hazel 1950年4月10日 - 1992年12月23日
ジミ・ヘンドリックス、ファンカデリック、バーニー・ウォーレル、レッド・ホット・チリ・ペパー

最新2023年版の The 250 Greatest Guitarists of All Time では29位にランクされていた。恐らくレッチリRed Hot Chilli Pepers を経由してではないかと推測しているのだが、エディ・ヘイゼルの知名度、評価はそれなりに高い。

しかし、改めてそのキャリアを辿ってみると、「不遇」とまでは言わないが、少し切ないものを感じてしまう人生だった。

エディ・ヘイゼルは、1950年にニューヨークはブルックリンに生まれ、その後ニュージャージーのブレインフィールドに移住する。そこでビリー・ネルソン(パーラメントのメンバー)を介してジョージ・クリントンと繋がることになる。そしてパーラメントに参加するのが1967年、彼は16歳の時だった。たちまち頭角を現し、1968年にはウェストバウンドレーベルと契約、パーラメントの別働部隊ファンカデリックとして活動を始める。

1970年ファンカデリック名義のアルバム 「Maggot Brain」のそのタイトル曲で、10分近いギターソロを弾き倒すのだが、このソロが名演として語り草になっている。

スタイルとしては明らかにジミ・ヘンドリックスの後継で、ファンク・ロックかつサイケデリックなフレイバーは、そのままヘンドリックスを踏襲している。俗にジミ・ヘンドリックスのスタイルにファンクを加えた云々というのを散見するが、それには少し説明が必要だ。ヘンドリックスのソウル・ファンクフレイバーはどちらかというと「大人の事情」で(商業的に)マイナスのバイアスがかかっていたという背景があり、それをファンカデリックが「代わりにぶち上げる」ことになった、というのが現実に近いと思われる。

ところでファンカデリックというグループを語る際に、その音楽性と魅力の中心を担っていたのは、バーニー・ウォーレルのキーボードとエディ・ヘイゼルのギターだったのではないかと考えている。

バーニー・ウォーレルは、パーラメント/ファンカデリック(=Pファンク)において初期から最後まで一貫して参加しており、多彩なキーボードプレイでグループの音楽性を支え続けた。彼は8歳の時にピアノ協奏曲を作曲して神童扱いされるような子供で、その後ジュリアード音楽院とニューイングランド音楽院でクラシックを学んでいる。つまりクラシックの素養を備えた実力派のプレイヤーだった。Pファンクの土台を支えたのがウォーレルなら、サウンドの看板を背負ったのがエディ・ヘイゼルであったと言える。一見するとキワモノに見えるPファンクだが、実は本物の音楽性を備えた実力派で、それを支えていたのがこの二人の才能だったのだと思われる(+ブーツィー・コリンズも付け加えたいところ)。

1974年にファンカデリック名義のアルバム「Standing on the Verge of Getting It On」をリリースするが、これがキャリアのピークであったと思われる。このアルバムは、エディ・ヘイゼルのギターを前面に出した傑作と言って間違いない。このアルバムの1曲目”Red Hot Mama”は、レッチリがカバーしているが、レッチリがこのアルバムからストレートな影響を受けているのは明らかだ。

この年ヘイゼルは、CAの女性に対する暴行と薬物不法所持で1年の懲役をくらってしまう。その後に復帰するのだが、ファンカデリックには既にゲイリー・シャイダーGarry Shider、マイケル・ハンプトンMichael Hamptonといったギタリストが定着しており、ヘイゼルは彼らの後塵を拝するようになってしまう。結局ファンカデリックの人気が沸騰した One Nation Under A Groove リリース以降のバンド絶頂期にはほとんど乗ることができなかった。

1977年には生前唯一のソロアルバムGame, Dames & Guitar Thangsをリリース。California Dreamin’のカバーなど面白い曲が揃っているのだが、どこか散漫な印象は免れない。エディ・ヘイゼルを試しに聴いてみようという向きには、ソロアルバムよりもむしろ「Standing on the Verge of Getting It On」の方をお薦めしたい。

この後のヘイゼルは音楽活動は続けていたようだが、目ぼしい活躍をすることはできなかった。改めて調べてみたが、少しばかり寂しい結果しか得られなかった。1992年に42歳の若さで亡くなるのだが、その死因は肝不全ということで晩年の様子が想像できてしまう。

一時代を築いた傑出した才能だったと思う。レッチリ他、彼をリスペクトしてそのスタイルを継承するアーティストが今も活躍していることが救いだ。レッチリはヘイゼルの不発弾をひとつひとつ拾い集めてそれをあらためて爆発させ、それを世界の隅々まで送り届けてくれた。と、私は考えたい。

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