「ブリル・ビルディング・サウンド」という言葉を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがなくとも次にあげるような曲のメロディを聞けばすぐに一緒に口ずさめるのではないかと思う。
- ロコモーション (キャロル・キングとジェリー・ゴフィン)
- スタンドバイミー(ベン・E・キングとエルモ・グリック)
- ビーマイベイビー(エリー・グリニッチ と ジェフ・バリー)
- ラストダンスは私に (ドク・ポーマスとモート・シューマン)
- 恋の面影 (バート・バカラックとハル・デイビッド)
- 悲しき慕情 (ニール・セダカ と ハワード・グリーンフィールド)
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ブリル・ビルディング・サウンド
「ブリル・ビルディング・サウンド」は、1960年代前半にガールズ・グループ等のアイドル・ポップのために多数のソングライター・チームが楽曲を執筆していたニューヨークのブリル・ビルディングから名付けられた。さながら「夢のヒットソング工場」がブリル・ビルディングだったのだ。ガール・グループ(女性ヴォーカル・グループ)が多く手掛けられ──シュレルズ、ロネッツ、クリスタルズ、ディキシー・カップスなどがその代表的とされる。
先にあげたヒット曲リストでわかるように「ブリル・ビルディング」ではコンビを組んで、他のコンビと競い合いながら曲をつくることがとても多かった。これがヒットソング工場としてどれだけすごかったかという数字を少しだけあげておくと、例えば、キャロル・キング&ゴフィンの作曲家チームは1960年から1968年の間に100曲近くをトップ40に送り込んでいるという。また、前回の記事で紹介したローラ・ニーロはシンガーでもあったが、ブリル・ビルディング・サウンドの作曲家として数々のヒット曲を持っていた。
ティンパンアレイとブリル・ビルディング
ブリル・ビルディングは、ニューヨーク市マンハッタンのブロードウェイにある現存するオフィスビルだ。この辺りは伝統的にティンパンアレー(20世紀初頭のアメリカで確立したポピュラー音楽における作詞家、作曲家と歌手の分業システム)の作曲家たちが数多くオフィスを構えていた地区だった。ロックン・ロールの時代=1950年代後半以降、ティンパンアレーの作曲家たちとはあきらかに異質な若い作曲家がこの辺りを拠点にし始める。垂直分業でまるで工場生産のようにヒット曲を量産するという意味ではティンパンアレーを継承しているのだが、【旧世代】ティンパンアレーと【新世代】ブリル・ビルディングにはいくつか大きな違いが存在する。
アイドルポップとティーンズマーケット
最大の違いは、前者は広い世代向けで結局大人向けの音楽を提供していたのに対して、後者は完全にティーン向けで、直前に大流行していたロックン・ロールを言わばソフトに骨抜きしたサウンドだったということだ。そしてこの頃に、都市部に住む比較的裕福な家庭の子女=「ティーンエイジャー」という新しいマーケティングターゲットが生まれた、ということでもある。彼(彼女)達は「シングル盤」のレコードを自由に買うことができたのだ。
感性的には10代の少年・少女たちと等身大の詞をプロが作り、プロの作曲家がそこに都会的で比較的音楽的クオリティの高い曲をのせて量産。最終的にはそれなりの歌唱力を持ったアイドルに歌わせる。プロといってもブリル・ビルディング・サウンドの作曲家たちはとても若く、20代が中心で、ついこの間までのティーンとして比較的容易にティーンの等身大になれる。そしてこれは割と重要なことだが、切ない恋心はテーマにしても、露骨に性的な表現は強いタブーとする、という、今風に言えば「アイドルポップコード」は、四半世紀前のまさにこの頃スタートしたのだ。
ロックンロール失速の狭間
ブリル・ビルディング・サウンドが前面にでてきた直接の要因はロックン・ロールが急速に衰退したことだった。1950年代の終わりに不幸な出来事が連続したことでロックン・ロールは急激な失速を被ることになる。
1957年10月、リトル・リチャードが突然「神の啓示」を受けて引退を宣言。
同じく1957年にはジェリー・リー・ルイスが親戚の13歳の少女と結婚していたことが発覚して大スキャンダルとなる。実は当時の法的には合法だったのだが、保守派からはとてつもない批判を浴びた。そもそも地方の保守派がロックン・ロールに対してかなり強い反発を持っていたのはいうまでもない。
1958年にはエルヴィス・プレスリーが徴兵される。
1959年にはバディ・ホリーのトリオを乗せた小型機が墜落し、パイロットを含めた四人全員が死亡。
その後1964年以降、ビートルズを筆頭とするブリティッシュインベンションがUSAに上陸するまでの音楽シーンはスター不在の端境期という認識が多かった。ロックの歴史を語る文脈でもほぼ無視される場合が多い。つまりプレスリーからビートルズまでの間には何もないのだ。しかし今になって振り返ってみると、20世紀のアメリカのポップミュージックにおいて、比較的重要な時代であった、ということが再認識されているらしい。
ブリル・ビルディング・サウンドの特徴
ブリル・ビルディング・サウンドの時代の大きな特徴として、ガール・グループと呼ばれた女性ヴォーカル・コーラスグループが大活躍し、しかもその多くが黒人女性グループだったということがあげられる。ロックン・ロールの最大のイメージである反抗性やセクシャリテはほぼ封印され、ヒット曲はどれも人畜無害かつ健全なものになったが、リズムを主役にしたパワフルなサウンドはロックン・ロールのそれをそのまま継承したこと。さらに、アメリカのポピュラー音楽史上、1960年から1964年ほど黒人女性がチャートで成功した時期はないという。しかも、シンガーのみならず、裏方の作曲家の方でも女性が活躍している。
直前のロックン・ロールの時代に黒人音楽が白人のティーン向けのマーケットで可視化されたわけだが、今度は黒人女性シンガーが、白人ティーン向けにしかもアイドル(グループ)として可視化されることになった。裏方=作曲・作詞家は若い白人、フロントのシンガーは主として黒人女性、というクロスオーバーな環境が実現していた。
そして、最後にブリル・ビルディング・サウンドの特徴を語る上で、この時期のスタジオでの録音技術が飛躍的に進歩した、ということをあげる必要がある。この録音技術の話で主役となるのがフィル・スペクターなのだが、これは別の機会に譲ることにする。
参考文献:アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ) [ 大和田 俊之 ]