プリンスとマイケル・ジャクソンそして黒人音楽のジレンマ

黒人音楽のジレンマ

アメリカにおける黒人音楽の歴史は、ある種のジレンマの連続でした。映画監督のスパイク・リーはこのことを「黒人が人間として前進すればするほど、音楽が魅力を失う」と表現しました。ここではかつての名著リロイ・ジョーンズの『ブルース・ピープル』とネルソン・ジョージの『リズム&ブルースの死』がとてもよく似た形で指摘していた「黒人音楽のジレンマ」について少し考えてみます。そうすることでゼロ年代以降の黒人音楽の動向が少し理解できるように思うのです。


そもそもアメリカにおける黒人の比率は10数パーセントに過ぎません。ヒスパニック系でも18.7%に過ぎないのです。黒人音楽の聴き手が黒人層だけであるなら、それは巨大と言えるほどのマーケットにはなりません。

しかし実際には、ベビーブーマーの若者達を中心とした60年代の白人層が、ロックン・ロールやロックを通して黒人音楽を受け入れることから始まり、結果としてそれは世界へ拡散して巨大なマーケットとなりました。ベビーブーマーの圧倒的な数の力がそれを成し遂げたといえるかもしれません。

アメリカの黒人音楽が世界へ広がる、という側面だけを見れば、聴き手にとってもアーティストにとってもそれは歓迎すべきことです。しかし、白人層にさらに受け入れられるためには白人のリスナーにとっての「わかりやすさ・聴きやすさ」が必要で、マーケットが巨大になればなるほど、この黒人音楽の白人化アレンジメントは進行します。マーケット規模が拡大すれば商業主義が加速するのは必然ですから、白人化アレンジメントの追及はいちだんと加速してしまいます。これは60年代後半から70年代にかけて急速に進行した現実です。黒人音楽の聴き手の中でも特に熱心なファンからすれば、黒人音楽の個性が次第に希釈され、さらに没個性化されていくように感じるのも無理がありません。黒人音楽が持っていた強い個性と魅力が次第に薄められることへの危惧を持っている人達がいて、彼らはそれを黒人音楽のジレンマとして捉えてきました。

世界の音楽ファンの大多数からすると、こうした危惧は意外に映るでしょう。例えば70年台のアメリカを中心としたロックやポップスのリスナーは、黒人音楽要素が次第に増えていることを実感しており、それをムーブメントとして概ね肯定的に捉えていたように思います。ですから危惧を感じていたのはコアなファンや批評家、特に黒人の批評家といった少数派でした。

もう一つの側面として、黒人音楽が隆盛する原動力の一つが、60年代の公民権運動に代表される、黒人の権利獲得と社会的な地位向上を目指した闘争であったことはいうまでもありません。そうした闘争はまさに黒人音楽によってシンボライズされており、黒人音楽をそれらの闘争と切り離して考えるわけにはいきません。こうした闘争は、それを支持する白人層の支持と加担によって実効力を持ち、それなりの、ある程度の結果を獲得しました(逆にこうした白人層からの加担がなければそれは少数派の暴動の連鎖程度で終わっていたかもしれません)。

ところがこの闘争がある程度の成果を得ること、つまり黒人層の地位がある程度向上するということは、言い方を変えれば黒人層の生活が部分的にではあれ「白人化」することでもあります。闘争の真っただ中にあっては、自分たちを「差別される者」ではなく自らプライドを持って「差別化する者」であろうとしたわけですが、いったん地位が向上して生活が少しでも豊かになってしまえば、そうした強い意識は次第に必要なくなります。つまりここでも黒人音楽は、それを支えてきた反抗の意思が希薄化することによって音楽自体も弱体化して見えてしまうのです。映画監督のスパイク・リーはこのことを「黒人が人間として前進すればするほど、音楽が魅力を失う」と的確に表現しました。

本来であれば、社会的地位や生活水準の向上と黒人としてのアイデンティティ=プライドの維持は両立できるはずです。しかし、向上したとはいえ満足できもののではない生活水準と、決して消滅はしない【差別】に対抗して、【プライドとしての差別化】= Say It Loud – I’m Black and I’m Proud !”(James Brown)を声高に言い続けることがお荷物になってしまう=疲れてしまう、ということがあるのかもしれません。さらに少し意地悪く解釈すれば、安易に、適当なところで「概ね白人化」した方がむしろ賢い立場でおいしく暮らせるのかもしれません。このあたりは当事者でないと切実なところは理解し難くもありますし、日本人である自分が海のこちら側で好き勝手に無責任に想像するのもかなり憚られます。

果たして、結局のところ黒人音楽は商業主義によって希薄化されたまま「普通の音楽」の1ジャンルとして一般化したのでしょうか?

個人的な結論を言ってしまえば、確かに商業主義による希薄化は絶えず行われてきたが、希薄化とブラックルーツへの先祖返りを幾度となく繰り返す内に「商業音楽全体」が黒く~濃く染まってきた結果、もはや聞きやすさのために希薄化する必要そのものが徐々に薄れてきた。というのが現実に近いのではないかと感じています。

レトロヌーボー、プリンスとマイケル・ジャクソン

ネルソン・ジョージはかつて(90年代のはじめに)『リズム&ブルースの死』の中で≪レトロ・ヌーボー≫という言葉を使いました。その定義は『情熱的で新鮮な発想や組織を生み出すための過去の容認』だそうです。そしてこのレトロ・ヌーボーを代表するのが、80年代のプリンスとマイケル・ジャクソンです。それは、商業主義によって死んだも同然の黒人音楽は、この二人によって息の根を止められると同時に再生する事を意味しています。少なくとも私はそう読みました。そしてこの≪レトロ・ヌーボー≫という捉え方こそが、現代に至る黒人音楽の歴史を理解するキーの一つだと考えています。


 さて、こうした黒人音楽のアメリカにおける現実を、政治的に強く抗議する立場、抗議まではしないが批判的な立場、批判はしないが寂しく感じて嘆く立場、といろいろな立場があります。立場はちがっても同じような構図が繰り返し取り上げられています。この構図を扱った黒人音楽論の中から比較的広く評価されている古典的名著をここでは挙げておきます。いずれも先に述べた危惧とジレンマを表明しています。これらについては別の機会に詳しく紹介したいと思っています。

『ブルース・ピープル』リロイ・ジョーンズ 1963年

公民権運動のピーク時に既に、黒人音楽文化における商業主義、都会志向、プロ化に対して強い批判的立場を打ち出していましたが、あまりにも政治的、党派的であることが批判されました。今日的な視点で考えると批判しやすいのですが、その彗眼は必ずしも無視できません。

『リズム&ブルースの死』ネルソン・ジョージ 1990年

70年大初頭のクロスオーバーで失速し、70年代末ディスコブームで死んだ黒人音楽の80年代レトロヌーボー以降を考えるという構成になっています。タイトルとはうらはらに決して「死」を必ずしも否定的には考えていません。

『ジャズは死んだか』相倉久人 1976年

主としてマイルス・デイヴィスがロックをやり始めたことへのジャズ界の戸惑いに纏わり、アメリカにおける商業主義と黒人音楽のダイナミズムを論じていました。商業主義とジャズメンの間のダイナミズムを弁証法のように捉えるものでした。その後の相倉氏はポストモダン的な立場へ移行して、こうした弁証法をどちらかと言えば否定する立場になります。

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