「産業ロック」という言葉を今でもしばしば目にする。使われだしたのは70年代の終わりから80年代にかけてだと思われるが、一般にそれは80年代に盛り上がっていたAOR(Adult Oriented Rock)に対する批判として享受されて今日に至っているようだ。
この「産業ロック」という言葉、最初に言い出したのはかの渋谷陽一氏だ。筆者自身は80年代初頭に彼のラジオ番組の中でこの言葉を聞いたような(定かではない曖昧な)記憶がある。
(なぜか既に削除されてしまったWikipediaの記載によれば)
渋谷陽一氏は「類型的なメロディ、大袈裟なアレンジ、保守的な音楽性で、≪産業ロック≫は動脈硬化そのものなのだ」という表現を使って産業ロック(≒)AORを批判しており、具体的にそのやり玉に挙がったのは、ジャーニー、フォリナー、スティックス、REOスピードワゴンなどだった。
音楽批評において、商業主義に対する批判というのであればとてもよく見かける。要するにポップ(系)音楽を粗製乱造することによって、その音楽ジャンル全体のクオリティがひどく下がってしまうことへのわかりやすい批判だ(特に黒人音楽系の批評ではしばしば目にする)。とは言え、20世紀のポップミュージックを考えるとき、商業主義こそがまさにその発展の原動力の一つであったことは明白で、下手な「商業主義批判」は、ポップミュージック全体の足元を揺るがしかねない。
だが、渋谷氏の「産業ロック」批判は、よくある商業主義批判とは少し趣が異なるものであったように思う。彼は商業主義批判のフォーマットを借りて、彼にとってのロックの「その魅力の本質」を声高に唱えたかったのではないか、と今更ながらに思えるのだ。特に80年代初頭の時期の音楽シーンに対して、彼がかなりイラついていたであろうことは容易に想像つく。
当時の彼が唱えたかったであろうと思しき「ロックの魅力の本質」とは、
プロフェッショナルが量産するポップミュージックへの対抗(カウンター)であると同時に、表現としての実験性、前衛性を強く志向したものであり、 そうした実験性、前衛性の繰り返しこそがロックの歴史をつくってきた。
と捉えればさほど外してはいない、と思う。
ここで、「プロフェッショナルが量産する」というのは明らかに、20世紀のアメリカにおいての「ティンパンアレイ」や「ブリル・ビルディング」に代表されるプロフェッショナリズム、良きにつけ悪きにつけ洗練された音楽プロ集団(=20世紀のポップミュージックを作ってきたプロ達)のことを言っている。余計なことを一つだけ言っておくと、これらのプロフェッショナリズムを支えてきたのは、歴史的にユダヤ人資本家と多くユダヤ系の才能であって、そのためにしばしば批判の対象になりやすい、というのは容易に見て取れる。
だからこそ件の「産業ロック」批判は、カウンターであったはずのロックが自らプロフェッショナルで成熟した量産体制を持つことをひどく嫌うわけだ。そしてさらに、黎明期のロックが確かに持っていた、未熟さと裏腹の前衛性を高く評価する、という具合に解釈できる。それこそがまさに、渋谷氏と彼の世代を夢中にさせたロックそのものであるに違いないからだ。
それは、少し意地悪く捉えれば「成熟への嫌悪」とか「未熟への郷愁」といったナイーブな感性として片付けてしなうこともできなくはない。加えて渋谷氏は、ジャーニーやREOスピードワゴンを批判のやり玉として挙げても、TOTO、Air PlayやSteely Danはおそらく批判していなかったのではないかと推測できる。というのは、少なくとも彼ら(TOTO、Air PlayやSteely Dan)が彼ら名義のアルバムでやっていた音楽は決して「保守的」でも「類型的」でも「粗製乱造」でもなく、前衛的とまでは言えないまでもそれなりに革新的ではあったので、それをストレートには批判し難いからだ。
(これは筆者の推測です…)
結局のところ、当時の彼の批判は「悪しき成熟に対する嫌悪」と「高い音楽性で成熟したロックへの戸惑い」、「ナイーブな未熟に対する郷愁」がない交ぜになっていたのではないだろうか。
ところで、渋谷氏が「産業ロック」批判をしていた頃とほぼ同時期だと思うのだが、ギタリストのCharが西海岸へ渡ってTOTOのメンバーとともにレコーディングを行っている。「U・S・J」というタイトルで1981年のリリース。プロデュースはChar自身とスティーブ・ルカサーということになっている。
Char: Guitar, Vocal, Producer
David Foster: Keyboard, Arrange by
Jay Graydon: Guitar, Arrange by
Steve Lukather: Guitar, Producer
Jeff Porcaro: Drums
Neil Stubenhaus: Bass
Richard Page: Background Vocals
Paulinho Da Costa: Percussion
これまた、ソースを確認できなかったのだが、なにかのインタビューでChar本人が、
「あのアルバムを作ったことを割と後悔している」という旨の発言をしていたと記憶している。私の記憶が確かなら「あんなのはロックじゃない」というかなり強いニュアンスでこのアルバムのサウンドを表現していた。
そこで、今更のように「U・S・J」を聴き返してみる。
例えばCharのライブではお馴染みの”Smoky”がわかりやすいのだが、確かに「U・S・J」に収められたTOTOバージョンの”Smoky(Smokey)”は、言わばロック風サウンドのポップスで、確かにとてもロックには聴こえない。なんというか”Chill Out”していて、ギターソロが始まっても少しも熱くないのだ。
何故、この「U・S・J」バージョンのSmokyはロックに聴こえないのか?
そして何故、Char本人に「あんなのロックじゃない」と言わせたのか?
Smokyという曲がコードからしてそもそもポップな曲だった・・・ポーカロのドラムがタイトに決めすぎ、しかもラテン・フユージョン風だから・・・ベースラインが洒落過ぎでいかにもAORだから・・・などと思いつくことは色々あるのだが・・・一番わかりやすいのは、TOTOバージョンがロックに聴こえないのであれば、逆に最もロックに聴こえる”Smoky”はどれかと考えてみることだ。
そうすると直ちに思いつくのが、Charがポール・ジャクソン(Paul Jackson)、ジミー・コープリー(Jimmy Copley)と一緒にやっていたバージョンの”Smoky”だ。ポール・ジャクソンは知る人ぞ知るヘッドハンターズでハービー・ハンコックとやっていたベーシスト。ジミー・コープリーはジェフ・ベックなどとやっていたタフなドラマーだ。この3人でやった”Smoky”の凄まじいばかりのテンションとグルーブは、かの「伝説的トリオ」の演奏を彷彿とさせる。「伝説的トリオ」とは(言うまでもなく?)エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーのクリームだ。常にジャムをやっているようなスリル、作品の前衛性等々どこをとってもクリームこそロックそのものに他ならない。そうするとTOTOバージョンの”Smoky(Smokey)”から聴こえてくるのは、プロフェッショナルが譜面通りきっちりまとめたかのようなポップスの予定調和だ。
興味がある人は是非YouTubeで”Smoky Char Paul Jackson”あたりで検索してみて欲しい。
そこで改めて、翻ってみるなら、渋谷陽一のかつての「産業ロック」批判が合点がゆくものになる気がしてくる。「産業ロック」批判は実はCharの言うところの「あんなの・・・ロックじゃない」に極めて近い感性ではなかったのか。
渋谷陽一氏の「産業ロック」批判は、商業主義批判の文脈で考えるとどうにも座りが悪いのだが、「あんなの・・・ロックじゃない」(Char)に象徴された、黎明期のロック~古き良き時代への郷愁と受け取ってしまえば素直に同意できる。
そして、ポール・ジャクソン(Paul Jackson)、ジミー・コープリー(Jimmy Copley)ともに既に故人になってしまった。