ブリティッシュ・ブルースの父 アレクシス・コーナー


Alexis Korner / R & B From The Marquee 【CD】

アレクシス・コーナー(Alexis Korner、1928年4月19日 – 1984年1月1日)はイギリスのミュージシャン。学究的ともいえるブルース・マニアでプレイヤーとしても活躍したが、多くのブルース系ミュージシャンを育てた「メンター」として歴史に名を残し、「ブリティッシュ・ブルースの父」と呼ばれている。

ミュージシャンとしてのデビューは1949年。当時のイギリスで大きな人気を誇っていたトラッドジャズを演奏するクリス・バーバーのバンドに加わった(クリス・バーバーは、トロンボーン奏者・バンドリーダーで、スキッフルのブームを作ったロニー・ドネガンやアレクシス・コーナーのキャリアを後押ししたことでも知られている)。コーナーはバーバーのバンド在籍中に、後に音楽パートナーとして活動を共にするシリル・デイヴィス(ブルースハープ奏者)と知り合う。

1950年代のイギリスでは「トラッドジャズ」がブームになっていた。これは19世紀末のニューオリンズ・ジャズから1920年代のディキシーランド・ジャズあたりまでのルーツ・ジャズ、つまりジャズが本来の「らしさ」を保っていた頃のスタイルを志向する音楽ブームだった。先に述べたクリス・バーバーの他、アッカー・ビルク、ケニー・ボール、ケン・コリアー、モンティ・サンシャインなどがその代表的なミュージシャンとされている。

元々は1930年代のアメリカで、シカゴを中心としたスウィング・ジャズ=白人的に洗練されたジャズに対する反動で、ジャズ本来の姿を取り戻すべくディキシーランド・ジャズ以前をリヴァイバルする動きがあった。アメリカにおけるこうしたジャズの「再発見」が、時を経たイギリスで支持されるようになったのがイギリスにおける「トラッド・ジャズ」ムーブメントだった。

こうした「トラッド・ジャズ」の流れの中から生まれてきたのが、イギリスにおける「スキッフル」のブームだ。クリス・バーバーのバンドが、そのメンバーだったロニー・ドネガンを大きくフューチャして『ロック・アイランド・ライン』という曲を大ヒットさせたのを発端としてブームが盛り上がった。この大ヒットをきっかけとして、以降、アコースティックギターを中心にしたフォーク~ロックン・ロール的なスタイルが広く「スキッフル」と呼ばれるようになる。

例えば、デビュー以前のビートルズが『クオリーメン』と名乗るスキッフルバンドだったことがよく知られている。この「スキッフル」ブームが少し後のブリティッシュロック隆盛の下地となったことはほぼ間違いない。この時代にスキッフルを演奏していたミュージシャンを列挙するなら、ヴァン・モリソン、ロジャー・ダルトリー、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、ロン・ウッド、アレックス・ハーベイ、ミック・ジャガー、ロビン・トロワー、デイブ・ギルモア、グラハム・ナッシュ・・・という具合に枚挙に暇がない。そしてアレクシス・コーナーもまたスキッフルを演奏していたのだが、彼は「スキッフル」よりもよりディープなブルースを志向しているという点で少し異色だったと言えよう。特筆すべきと思われるのは、コーナーが本場の黒人ブルースに対して強いリスペクトをもっていたことは間違いないが、それを本物そっくりに再現する、のではなく、自分たちなりの新しいスタイルとして昇華しようというクリエイティブなモチベーションがあったように見受けられることだ。このモチベーションこそが彼の周りに集う若手のミュージシャン達を強く惹きつけ、ブリティシュ・ブルースの、延いてはブリティッシュ・ロックの大きな原動力になったように思われる。

1955年、アレクシス・コーナーはシリル・デイヴィスと共にスキッフル向けのクラブをオープンするが、1957年にはこれを「ロンドン・ブルース・アンド・バレルハウス・クラブ」と名を改め、ここでアコースティック・ブルースを演奏するようになった。ここには多くのブルース・アーティストをアメリカから招いて、時にはコーナーらがセッションを行った。特に1958年のマディ・ウォーターズのライブは、コーナーとデイヴィスにひときわ強いインパクトを与えたようで、この後の彼らはアンプを使ったエレクトリック・ギターによるシカゴスタイルのブルースを演奏するようになった。

1961年にはデイヴィスと共に「ブルース・インコーポレイテッド」を結成。このバンドには後にブルース・ロックを牽引することになる多くの若手ミュージシャンが入れ替わり参加している。例えば、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー(クリーム)、チャーリー・ワッツ、ブライアン・ジョーンズ(ストーンズ)、ディック・ヘクストール=スミス、グレアム・ボンド・・・。

「ブルース・インコーポレイテッド」はメンバーを固定せず、アレクシス・コーナーを中心とするブルース・ロック・サークルとして多くのミュージシャンを育てることになった。1962年にはデビューアルバム『R&Bフロム・ザ・マーキー』をリリースするが、このアルバムで演奏されているのはもはやスキッフルではない。文字通りの「ブリティッシュ・ブルース」であり、真にブリティッシュ・ロックの源流をここで聴くことができる。

1967年には、新たにバンドを結成すべくベーシストを探していたポール・ロジャース、サイモン・カーク、ポール・コゾフらにアンディ・フレイザーを紹介したのがコーナーだった。さらに「フリー」というバンド名を授けてデビューを後押しした。この時、彼らはまだ10代だったが、翌年にデビューして瞬く間にブリティッシュロックを代表するバンドの一つとなった。ブリティシュ・ブルースを父とする新しいロックの誕生だった。

1968年にはツェッペリンでデビューする直前のロバート・プラントとコーナーが録音を残している。ここでは、コーナーの力を借りて粗削りながら白人ブルースシンガーとしてのスタイルを既に確立しているロバート・プラントを聴くことができる。この時のプラントは20歳だった。

1970年にはブルースロックのビッグバンド「CCS」を結成。ミッキー・モストのプロデュースでツェッペリンのカバー「Whole Lotta Love」をイギリスチャートに送り込んでいる。因みにこのカバーバージョンはBBCラジオのヒットチャート番組のテーマソングとして1970年から1981年まで使用された。

その後も元キング・クリムゾンのボズ・バレル、イアン・ウォーレス、メル・コリンズと共にバンド「スネイプ」を結成するなどプレイヤーとしての活動はしているのだが、70年代以降のアレクシス・コーナーは、インタビュアー、ライターとしてブルースの普及に努める他、ラジオ番組を持つなど放送界をキャリアの中心としていた。

最晩年にはかつての弟子筋にあたるチャーリー・ワッツ、ジャック・ブルース、イアン・スチュワートらとともに「ロケット88」というバンドを組んでいたが1984年1月に肺がんで他界した。

ところで60年代のイギリスには、もう一人のメンターにしてブルースの父と呼ばれるべき人物がいる。それはジョン・メイオールなのだが、この人については改めて別記事として紹介することにするが、アレクシス・コーナー、ジョン・メイオールとそれを取り巻くミュージシャンの相関関係は、以下のリンクから音楽ルーツマップで是非確かめていただきたい。

https://app2.ongak-gak.com/demo_app/graph/3e7059dd-6605-4350-a608-7a48c31d91c1

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