「ニューミュージック・マガジン」は現在の「ミュージック・マガジン」の前身で1969年に創刊されています。雑誌名の「ニューミュージック」とはかつて存在した日本のポップスジャンルとしての〈ニューミュージック〉ではなく、まさに当時「ニューロック」とも呼ばれていた「ロック」を指しています。1970年の洋楽視線ではロックが文字通りの意味でニューミュージックだったわけです。
遡ってみると、米音楽雑誌 Sing Out!1966年9月号に”New Music”という単語が登場するそうです。そこではビートルズのラバーソウルとボブ・ディランのハイウェイ61が”New Music”と呼ばれていたということです。因みに日本で松任谷由美あたりを大きく捉えて〈ニューミュージック〉と呼び始めたのはおそらくだいぶ後70年台半ば以降のことだと思われます。〈ニューミュージック〉というジャンルが一般的になってしまったことを嫌ってか、1980年に「ニューミュージック・マガジン」は現在の「ミュージック・マガジン」に改名しました。
日本の〈ニューミュージック〉ではない英語圏の”New Music”は1965年ころから意識されるようになり、1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルと1969年のウッドストックで世界的な認知を得るようになります。まさにこの時ポップミュージックの主役が完全にロックになったわけです。このことを「ロックが完全な市民権を得た」と表現する人もいました。この時の「ニューロック」と「ニューミュージック」はほぼ同じ領域を名指していました。
雑誌ニューミュージック・マガジンは、まさに新しいロックを中心に、当時のソウルからフォークまで含む大きなムーブメントを受けて創刊された音楽雑誌でした。当時は音楽誌というより文芸誌や思想誌に近い存在で、かなり「重かった」この雑誌ですが、自分は小学生の頃からこの雑誌の愛読者で、いい意味でも悪い意味でも毒されていました。因みに私事になりますが、小学校の同級生が一時期のこの雑誌でレコード評を書いていた、なんてのもあります。ミュージック・マガジンはご存じの通り今でも健在で、私も時々ではありますが買って読みます。考えてみれば半世紀にわたって一つの雑誌を読み続ける、というのもほんの少しはすごいことかもしれません。
手元に1970年4月号の「ニューミュージック・マガジン」があります。50年前の雑誌でそれなりの年季が入っています。これを買った時の自分はまだ小学生でした。この4月号ではニューロックに至るロックの歴史をいったん総括しつつ、次のようにニューロック・ベストレコードを選出していました。
ベストレコード金賞
レット・イット・ブリード/ローリング・ストーンズ
ベストレコード銀賞
アビーロード/ザ・ビートルズ
企画賞
フィルモアの軌跡/アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド
日本のロック賞
私を断罪せよ/岡林信康
ブルース・R&B賞
ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ
今考えてもごく真っ当な選出です。中村とうよう氏は「レット・イット・ブリード」は文句なしの傑作。「アビー・ロード」は、コンセプト・アルバムとして傑作、という評価をしています。これは当時としては慧眼だったと思うのですが、実際のところ「アビー・ロード」は狙いすましたコンセプトアルバムで、前作「サージェントペパーズ」はたまたまの結果として「コンセプトアルバム」っぽくなっちゃったアルバムなんですね。余談ですがもう少し詳しく言うと、「サージェントペパーズ」はコンセプトアルバムを狙ったわけではなく、サージェントペパーズによって「コンセプトアルバム」という概念が生まれて、その後の多くのアーティストが追随することになったんです。
ところで、この時ベストレコードの候補に挙がっていたのアルバムは次の通りです。
- レット・イット・ブリード/ローリング・ストーンズ
- アビーロード/ザ・ビートルズ
- シカゴの軌跡/シカゴ
- レッド・ツェッペリンⅡ
- ザ・ウェイト/ザ・バンド
- ザ・バンド
- ブラッド・スウェット&ティアーズ
- 奇跡のニュー・ロック・サウンド/クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル
- ストリート・ノイズ/ジェリー・ドリスコール
- クロスビー・スティルス・ナッシュ
ロックの時代の息吹を感じるリストですが、抜けていることが気にかかるアルバムがあります。ジミ・ヘンドリックスの”Electric Lady Land”です。このアルバムは1970年のベストアルバムどころかロック史に残るような名盤です。ブルース・ロック、ジャム・セッション、サイケデリックという当時の流行を全て山盛りに詰め込んだ、それこそコンセプトアルバムだったわけです。にもかかわらず、当時のミュージック・マガジンではさほど評価されていないんです。たくさんいる選考委員の中でElectric Lady Landを選んだのは、水上はる子さんただ1名だけでした。ジミ・ヘンドリックスが亡くなるのはこの年の9月ですから、まだ存命で「伝説」になりきっていないわけです。歴史的にはウッドストックの名演で伝説化したとされるジミ・ヘンドリックスですが、直後の70年の時点の(少なくとも日本では)まだ伝説化していない、というのは今になって気づいた興味深い事実でした。
これはもっぱら想像ですが、1970年初頭の日本にはジミ・ヘンドリックスの衝撃は十分に伝わっておらず、ウッドストックのドキュメンタリ映画が公開された時点(日本では1970年7月)でようやく衝撃が「来た」のではないでしょうか。『ネット』の現代とは違ってこの頃には流行の時差が相当にあるわけですよ。
ところで、ただ一人ジミ・ヘンドリックス推しの水上はる子さんですが、彼女が中心になって自費出版していたミニコミ誌「レボリューション」というのがありました。このミニコミ誌に投稿していた渋谷陽一、岩谷宏両氏がその後立ち上げた音楽誌が「ロッキング・オン rockin’on」です。創刊は1972年ですね。ニューミュージック・マガジンがロックを中心としながらもどちらかというとブルース系黒人音楽に重きをおいていたのと対照的に、ロックファンによる「純粋ロック批評」の雑誌を標榜していたのがrockin’onでした。さらに対照的なのは、ニューミュージック・マガジンの先にも述べたような文芸誌、思想誌的なポジションや編集長である中村とうよう氏のある種「文化人的」な物言いに対し、rockin’onの渋谷陽一氏は批判的な立場をとっていました。
いずれにせよ70年代=ロック黎明期の日本にあって、ロックという新しい音楽を本気で批評しようとする対照的な雑誌が二つあった、ということは、この国のミュージックシーンにとってとても貴重な資産であったと思います。
参考までにニューミュージック・マガジン誌でベストアルバム選考委員を務められた音楽評論家は以下の方々です。
- 朝妻一郎
- 板倉マリ
- 小倉エージ
- 亀淵昭信
- 木崎義二
- 桜井ユタカ
- 中村とうよう
- 福田一郎
- 水上はる子
- 矢吹申彦
- 鈴木啓志
- 日暮泰文
- 湯村輝彦
錚々たるメンバー・・・恐れ多い先達の皆さまです。私には雑誌とラジオを通した師匠達ですね。