早世した天才ギタリスト達

早世することでその才能と評価を際立たせたロックギタリストの中でも、特にブルース系のギタリストを取り上げてみました。改めて書き連ねてみるとそれぞれの運命とその連鎖に強い因縁を感じざるを得ません。早世によって才能を過大評価されたのでは、という口の悪いことをいう輩を見かけますがひとまずそれは無視します。夭折したギタリストは他にもいますが(ランディ・ローズetc)とりあえずブルースしばりで6人にしぼりました。

ロバート・ジョンソン

1911年5月8日 – 1938年8月16日 27歳没

文字通り伝説のブルース・ギタリスト。生前は地元以外ではそれほど名前を知られておらず後世へ残すことができた録音は29曲59テイク。現存するのはそのうちの42テイクのみです。このわずか29曲のみで伝説を作ったということだけでも特筆すべきでしょう。その伝説はエリック・クラプトンやボブ・ディランといった、1960年代のレジェンドアーティスト達からの賞賛を発端とするものです。特に自らをブルース・ギタリストと断言するエリック・クラプトンのロバート・ジョンソンに対する強いこだわりは非常によく知られています。27クラブによるこじつけとは感じつつも、私は、ジミ・ヘンドリックスから始まるギターレジェンドの少し隠れた水脈の源流はロバート・ジョンソンにある、と今でも信じています。(ロバート・ジョンソンについては書きかけの以前の記事があります。)

*27クラブはおそらくカート・コバーンの死後に定着した言葉。―27歳で死亡したポピュラー音楽のミュージシャン、アーティスト、俳優の一覧である (wikipedia)。

ロバート・ジョンソンの死因

資料が限られていて、研究者によっても死因は明らかにされていません。浮気相手の亭主に毒殺されたというのがほぼ定説になっています。この説はいくつかの証言を根拠にしていますが、ある程度信ぴょう性が感じられます(これは私の主観です)。毒殺説の他に先天性の病気説も存在しているようです。遺族は毒殺説を否定して病死であると主張しています。研究者によって死亡診断書が発見されたらしいのですが、死因は記載されていなかった、とのことです。個人的には死因を科学的に特定するより「悪魔との取引」として彼の才能を讃えるだけでいいと感じています。

ジミ・ヘンドリックス

1942年11月27日 – 1970年9月18日 27歳没

今更説明もいらない、ロックギターという分野そのものを打ち立てた人です。没後50年たってもロック史上最高のギタリストという評価は揺るぎませんし揺るいだことが一度もありません。ロックギターの改革者ではありますが、基本的にはブルース・ギタリストだと私は考えています。また、ジミ・ヘンドリックスがロバート・ジョンソンを愛聴していたことは 以前の記事 で書きました。ロックギターのレジェンドとして扱われることがほとんどで、ファンクロック=ブラックロックの立役者の側面がやや隠れてしまっているのは個人的には少し残念です。

ロバート・ジョンソンとジミ・ヘンドリックスという二人の(敢えて書きますが)ブルース・ギタリストが共に27歳で亡くなったことをどのように表現したらいいのかわかりません。27クラブという不吉な言葉はだいぶ後になって言われるようになりましたが、この二人の悪魔との取引はつい信じてしまいたくなるような魅惑があります。

この人の死は多くの人にショックを与えましたが、それはロック界だけにとどまりませんでした。ジャズの帝王マイルス・デイヴィスはその伝記の中でジミ・ヘンドリックスの死を心から嘆いています。何故ならマイルス・デイヴィスは1970年代の新しいジャズを、ヘンドリックスのブラック。ファンク・ロックを軸にして開拓しようといていた最中だったからです。マイルス・デイヴィスとジミ・ヘンドリックスは何度かセッションを持ち『新しい音楽』の構想を練っていました。それがどのようなものになったかを知ることはできませんが、この後のマイルスの仕事からある程度想像することはできます。マイルス・デイヴィスは葬儀にも参列してその死を悼んでいます。もしかしたらジミ・ヘンドリックスの死を最も嘆いたのはマイルス・デイヴィスかもしれません。

ジミ・ヘンドリックスの死因

定説では睡眠薬の服用とワインの飲みすぎによる昏睡状態で嘔吐による窒息死となっています。海外との行き来を頻繁に行う人達が時差ボケを解消するために睡眠薬を常用することは今日でも珍しくありません。世界を股にかけるような売れっ子のアーティストが睡眠薬を常用することはよくあることでしょう。しかし、この当時の睡眠薬は現代のそれとは全く異なる危険な代物でアルコールとの併用は極めて危険でした。このことはマイルス・デイヴィスの発言で「睡眠薬とアルコールは最悪にやばいんだ。どうして誰かが彼に教えてやらなかった」という嘆きによく表れています。

デュアン・オールマン

1946年11月20日 − 1971年10月29日 24歳没

今の日本の若い世代には知名度が低い気がしますが、エリック・クラプトンとデレク&ドミノスの名曲『いとしのレイラ』のギターソロを弾いている人、と説明すれば納得してもらえるかもしれません。ローリングストーン誌の100人のギタリストではトップ10に入る人です。

弟のグレッグ・オールマンと共に結成したオールマン・ブラザース・バンドのギタリストとして知られますが、アレサ・フランクリン、キング・カーティスやウィルソン・ピケットの作品でのスタジオ・セッション・ギタリストとして非常に高い評価を得ていました。ソウルフルに歌い上げることのできるロックギタリストとしての評価でした。レイラを始めとしてエリック・クラプトンと近いところで活躍していましたので、エリック・クラプトンからの賞賛というより絶賛も受けています。

ディアン・オールマンの事故死

この人が亡くなったのはバイクの事故でした。この時24歳、まだ27クラブにも入れません。翌年のほぼ同じ時期(11月11日)、同じ場所で、同じオールマン・ブラザーズ・バンドのベーシストであるベリー・オークリーがバイク事故で亡くなった時には多くの人がある種のうすら寒い因縁を感じました。

この人の救いは後継者がいることです。それはオールマン・ブラザーズ・バンドのオリジナルメンバーだったブッチ・トラックスの甥にあたるデレク・トラックスです。彼は新生のオールマン・ブラザーズ・バンドでギタリストを務めましたし、エリック・クラプトンのツアーメンバーとして来日もしています。この来日公演は私も武道館で観ました。まさにデュアン・オールマンを髣髴させるような空駆けるスライドギターは圧巻そのものでした。

エディ・ヘイゼル

1950年4月10日 – 1992年12月23日 42歳没

この人は日本での知名度があまり高くない気がしますが、ローリングストーン誌のギタリスト100には入っていて一定の評価を受けたギタリストです。先日来日したジョージ・クリントン率いるパーラメンツ/ファンカデリックで活躍しました。特にファンカデリックのアルバム『マーゴット・ブレイン」でのソロが有名です。そのスタイルは明らかにジミ・ヘンドリックスをフォローしています。

ジミ・ヘンドリックスの再来と言われるブラック(ファンク)ロックのギタリストでした。ヘンドリックスがもし生きていたらこんなプレイをしていたかもしれない、という想像を否が応でもしてしまいます。しかしその事が彼のキャリアにとってはあるいは重荷であったかもしれない、と想像できます。

42歳という年齢は早世にはあたらないかもしれませんが、エディ・ヘイゼルの死因は病気(肝不全)でした。

スティーヴィー・レイ・ボーン

1954年10月3日 – 1990年8月27日 35歳没

1982年にモントルージャズ・フェスティバルに出演して、それを見ていたデビット・ボウイのオファーを受けます。ボウイのアルバム「レッツ・ダンス」に参加し、同盟のシングル「レッツ・ダンス」が大ヒットしたことで一気に有名になりました。80年台特有のメタリックなダンスナンバー「レッツ・ダンス」に対して、狙いすました確信犯的な「ミスマッチ」と言えるアルバート・キングスタイルのブルースフレーズが非常に強いインパクトを与えました。MTVの時代=猫も杓子も能天気の時代にこれほどオーソドックスなブルースギタリストが脚光を浴びるというのはほとんど事件に近かったと思います。

この中で唯一来日しています。私はこの人のステージを東京で目の当たりにしています。ブルースはもとよりですが、ジミ・ヘンドリックスのVoodoo Childを聴きながら震えが止まらかったのを覚えています。この時は割と独自の解釈でしたが、別のステージではヘンドリックスのほとんどフルコピーのような弾き方をしていることもあります。私は自分のこれまでの人生でこれほど美しいギター(ストラトキャスター)の音を聴いたことがありません。

スティーヴィー・レイ・ボーンの事故死

移動中のヘリコプター事故でした。残念なだけで特に不審な事故ではなかったと思います。全くの不慮の事故ではありますが、十字路での取引を想像したのは私だけはなかったように思います。

ポール・コゾフ

1950年9月14日 – 1976年3月19日 25歳没

ポール・ロジャースと共にフリーを結成して1969年にデビュー。ギタリストとして活躍しました。ブルース基調のシンプルでソリッドなギタープレイは定評がありました。彼のプレイスタイルはよく「泣き」のギターとして語られることが多かったように思います。

ドラッグ癖は強かったようで死因はドラッグであるかのような記述を散見するのですが、Wikipedia(en)によればエコノミー症候群による急死です。直接の死因は「肺塞栓症」ということになっており、

フリーのドラマーサイモン・カークの証言によれば、コゾフはジミ・ヘンドリックスを深く敬愛しており、その死をひどく悼んでいたとのことです。

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